シン・ゴジラ観てきました その3 セカンドコンタクトと石原さとみ
さて、今回はシンゴジラの感想2回目です(その1は全く感想になっていません(苦笑))。以下、ネタバレですので、お気をつけください。
ハリウッド映画の脚本などで、「主人公と敵役は三度出会う」というパターンがあります。一回目の遭遇については、その2で紹介しました。今回は、二回目の遭遇についてです。
通常の作品であれば、次のような流れになるはずです。
2)単独で敵役と戦おうとして、失敗する
3)ピンチから立ち直り、仲間の協力を得て、敵役に勝利する
ところが、『シン・ゴジラ』では、次のような流れになります。
3)日本が新たな対策を立ててゴジラに立ち向かい、勝利する。
正体不明のゴジラに対して、二度目の遭遇で、打てる手は全て打ち尽くしているというのがミソですね。自衛隊の攻撃が有効ではなく、米軍の攻撃が多少なりとも有効であったからこそ起こる悲劇…(「この手ではなく、あの手を使っていれば…」という余白を残さないのが良いです)。この映像が圧巻です。震えました。自然と口がぽかんと空いていました。同じ体験をした方は少なくないはずです。
ゴジラが上陸しても、街が破壊されていっても、あくまでも徐々に…でした。
まだ大丈夫、まだ復興の可能性が…
というところに、あのシーン。しかも、政府首脳がほとんど全滅するという…ハード面・ソフト面ともに徹底的に追い詰められる日本…。このあたりの描き方が、「リアルな」「怪獣映画」という感じです。
さて、アメリカとの接点で注目すべきは、石原さとみの扱いについてでしょう。これも賛否両論あると思います。おそらく、否定的な意見としては、
「リアルを追求した映画で、石原さとみだけが浮いている」
「石原さとみの、日本語の間に挟まれる突然の英語がおかしい」
というところでしょうか。米軍の出動というのは必須事項ですし、日本単独でゴジラに当たるというのは、現実的ではありません。となると、石原さとみの役どころを欠かすことはできません。もし、代案を考えるとなると…
1)アメリカ人俳優をキャスティングする
が考えられます。
1)の場合は、テンポの問題があります。冒頭の閣僚会議から「テンポ」は重要視されていました。もしアメリカ人俳優をキャスティングすると、「テンポ」が損なわれます。常に通訳を介する必要が出てくるのです。そりゃあ、そのあたりを省略して字幕で処理するってこともできるでしょうが、そうなると、彼(もしくは彼女)と接する日本人がすべて英語を使わないといけなくなります。
また、アメリカ人が英語を使わずに、たどたどしい日本語を話したり、逆に流暢な日本語を話したりすると、なんだか胡散臭く感じてしまいます(これはボクだけでしょうか(苦笑))。デーブスペクターやダニエルカール、ボビーオロゴンが(たとえ彼らが、並外れた知識や知恵を備えているということを我々が了解しているとしても)、真面目な顔して政治的な駆け引きをすると、おかしさの方が勝ってしまうでしょう。
ということで、1)のアメリカ人俳優をキャスティングするのは却下でしょう。
2)の場合はどうでしょうか。例えば幼少時代をマンハッタンで過ごし、近所にロバートデニーロやビヨンセが住んでいるという河北麻友子をキャスティングしたら…。結局、日本語の途中で時折はさまれる英語に、観客は違和感を覚えるでしょう。
つまり、石原さとみの役が持つ違和感は、日本人のコミュニケーションの問題であると言えます。石原さとみでなくても、誰が演じたとしても「違和感」はぬぐえない…かといって、役を削るわけにはいかない…という中で、監督、脚本、役者がそれぞれ最善を尽くした結果なのではないかなと、ボクは思います。